こんにちは!データサイエンティストの青木和也(https://twitter.com/kaizen_oni)です!
今回の記事では、独学ブームの最中に学びについて「自分ごと化」という観点で見つめ直す1冊『知のデザイン―自分ごととして考えよう』を読んで得た学び3選についてご紹介したいと思います!
何かとリスキリングについて叫ばれる現代で、「自分ごととしての学び」は身につまされる部分がありますので、ぜひ本記事を参考にしていただけると幸いです!
本書の概要
重要なキーワードとして、「自分ごと」、「生活」、「からだで学ぶ」、「構成のループ」、「デザイン」という五つのことばを挙げておきたいと思います。
諏訪正樹・藤井晴行『知のデザイン 自分ごととして考えよう』(近代科学社/2016) iii
サブタイトルにもあるように、自分ごととして考える生活習慣を本書では訴えます。
本書は、広くデザインや学びについて研究している2人の共著者が、上記5つのことばを手がかりに、どのようにして「デザイン」を行い、どのようにして「自分ごと」として学んでいくのか、などについて論じた一風変わったデザイン、学びに関する書籍です。
本書は、哲学書に近いニュアンスがありつつも、人の学びについて独自の理論を展開しており、日々独学をしている人、スポーツをしている人、教育関係者にとっては「確かに、、、」と思える場面が多い、そんな1冊になっています。
本書の章立ては以下のとおりです。
- 第1部: 自分ごとの欠如
- 日常生活における自分ごとの欠如
- プロフェッショナル・デザインにおける自分ごとの欠如
- 学問における自分ごとの欠如
- 第2部: 自分ごとで学ぶための方法
- 自分ごととしての学び
- モノへの眼差しがからだと記号をつなぐ – からだメタ認知メソッド
- からだメタ認知の実践事例
- 第3部: 自分ごとで研究するための方法
- 一人称で問いを立てましょう
- 構成的な手法で研究しましょう
- 第4部: 知をデザインするマインド
- デザイン・マインドを働かせよう
- 知の研究の伝え方・学び方
- 教育における伝え方・学び方
本書から得た学び
本書から得た学びは以下の3つです。
- 上級者の<特徴>と上級者の意識している<入力変数>は異なる可能性がある
- 上達の過程で「ここさえ意識すれば大丈夫」はない
- 全てを教えるのが教育ではない
順を追って解説していきます。
上級者の特徴と上級者の意識している<入力変数>は異なる可能性がある
スポーツ科学の研究者がある注目変数を挙げて、それがプロと素人の違いであることを立証したとしても、これから学ぼうとするすべてのアスリートのひとにとって、その注目変数が入力変数であるとは限らないのです。
諏訪正樹・藤井晴行『知のデザイン 自分ごととして考えよう』(近代科学社/2016) P86
本書の例を借りるのであれば、「多くの東大合格者はノートが美しい」という検証結果から「ノートを美しく書くことこそ、頭が良くなるために必要なことである」という結論を得たとします。
この時、「頭が良くなる」という結果に対して、寄与すると考えて注目している変数、「ノートを美しく書く」のことを本書では<注目変数>と呼んでいます。
さて、皆さんが「ノートを美しく書くことこそ、頭が良くなるために必要なことである」と言われて、「本当だ!」と思うでしょうか?
ここで、実は東大生たちは「ノートを美しく書くこと」ではなくて、「教科について理解を深めるために、自分なりに試行錯誤して工夫を凝らした、その結果としてノートが美しくなった」ということが彼らへのインタビューから分かったとしましょう。
この時、東大生が意識していた「教科についての理解を深めるためのノートの工夫」の部分が、本書における<入力変数>にあたります。
つまり、東大生たちは<注目変数>に意識をしていたのではなくて、<入力変数>の方に意識を向けていたわけです。
このような、表層的に相関が見えるものの、実は裏側に真の要因が隠れているような状況を、統計学では「擬似相関」と呼びます。
そして、ここまでの話から分かることは、プロアスリートや勉強熱心な東大生のように、長年の積み重ねによって暗黙知が形成されている場合には無意識化している行動にこそ素人との差別化要因があり、表層として見えている特徴だけ真似ても「猿真似」にしかならない可能性がある、ということです。
転じて考えるのであれば、人からのアドバイスや「こうするといい!」のような方法論はまずはやってみて、「実はアドバイスされたことの根本にある原理はここなのでは?」と自分なりに探索してみることが重要だということがわかります。
上達の過程で「ここさえ意識すれば大丈夫」はない
本書では、「著者の研究室の学生が9ヶ月にもわたって週5日強ボーリング場に通い、ボーリングのスコアとボーリングの気づきを書いたメモを分析する」という、大変さがとんでもない卒論の話が出てきます。
本書においては2つのグラフが紹介されており、1つがボーリングスコアの推移グラフ、もう1つが「気づきメモ」のうち、身体全体への気づき vs 詳細部位への気づきを割合で換算した際の推移グラフが紹介されています。
ボーリングスコアの推移グラフについては、日毎に上下動しており、なかなか安定的に上昇はしていないものの、 70日付近を境に平均スコアが優位に上昇していることが統計的検定から明らかになっています。
努力した末のブレイクスルーが起きていることが上記グラフから分かるようになっています。
一方で、より興味深いのは「気づきメモ」の比率のグラフの方です。
グラフを言葉で表現すると、以下のような推移をしています。
- 最初は全身への意識と詳細部位への意識が大体50:50からスタート
- ブレイクスルーの70日目まではだんだんと詳細部位への意識の比率が高まっている
- 70日目から110日目まではだんだんと身体全体への意識の比率が高まる
- 110日目から160日目まではまただんだんと詳細部位への意識の比率が高まる
- 160日目以降についてはまただんだんと身体全体への意識の比率が高まる
上記のように、「ボーリング」という身体活動における気づきは、重点を置くポイントが身体全体と詳細部位を往復していることが分かります。
では、なぜ上記のような意識の重点が変わるようなことが起きるのでしょうか?
本書においては、詳細部位に関する気づきが増えることについて、以下のような解釈が提供されています。(少しブログ主の言葉で置き換えています)
- 学び手が、小さな気づき(入力変数)を得て、それらの中でスキル上達に関与するものと関与しないものを振り分ける
- 関与する変数たちを持ってして再度身体に注意を払い、変数それぞれの類似性や関係性を特定する
- 類似性や関連性から、自分なりの身体感覚の表現(=包括的シンボル)を獲得する
つまり、上達するために多くの気づきを得て、重要なことを見極めながら、そのエッセンスを抽出しようと試行錯誤している、ということです。
そして、それぞれの入力変数が統合されて、大きく連動した身体感覚(=包括的シンボル)になることによって、身体全体に意識が向かっていく、ということが分かります。
一方で、その後再度詳細な部位に向かっていくのは、包括的シンボルを得たことによって、新たな詳細な気づきが得られるから、と説明されています。
そのようにして、詳細に視点を向けたり、全体に視点を向けたりすることの繰り返しによって成長が生まれ、成長することによって新たな気づきを得ることができるのです。
全てを教えるのが教育ではない
本書の大きなテーマとして「自分ごと化」というキーワードが挙げられます。
人からの受け売りの考えをそのまま話すことは「自分ごと化」できているのでしょうか?
人から言われたテクニックをそのまま実践することは「自分ごと化」できているのでしょうか?
そして、この「自分ごと化」は特に教育の場面において気をつける必要があります。
例えば、新入社員研修やOJTなどの場面を考えてみましょう。
講師が一生懸命話すもののなかなか彼ら/彼女らの頭には入ってこない。
仕事のやり方を必死にレクチャーするけどなかなか覚えてくれない。
これは、教育対象者を「自分ごと化」するフェーズまで引き摺り込めていないことが原因と考えられます。
だとすれば、教育を行う側はどうすればいいのでしょうか?
やるべきことは、教育対象者の「自分ごと化」を促す取り組みをすることです。
- 着眼点を示して考えることを促してみる
- やってみせて考えされる
このような取り組みをすることによって、徐々に教育者側に「自分ごと」感が生まれてきて、そうなってやっとこちらからの情報伝達がスムーズに進みだすのです。
学ぶべき対象が「自分ごと化」しないことには真に習得することはできない、とするのが本書の主張です。
まとめ
今回の記事では、独学ブームの最中に学びについて「自分ごと化」という観点で見つめ直す1冊『知のデザイン―自分ごととして考えよう』を読んで得た学び3選についてご紹介していきました!
皆さんも表層的な学びに陥らないように、学びの対象を「自分ごと化」して、自分の言葉で腹落ちをして、試行錯誤の中で自分なりの知を得ていただければと思います!
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